十四の眼


 ずっと感じていた違和感は「匂い」だったのだと、バンクリフは唐突に気づいた。
 ──いや、正確には「何の匂いもしない」ことが、強烈な違和感をこの場に与えているのだ。
 建物でも土地でも、およそどんな場所にも、それ特有の匂いというものが存在している。地面や草木の匂い。風の運ぶひなたの匂い。建造物の匂い、木材や漆喰や金属の匂い。ものが燃える匂い、何かを料理する匂い、着飾った婦人のふり撒く香おしろいの匂い、働く男の汗の匂い。
 どんな世界にも、固有の匂いがある。それはその世界に何が生き、何が在るのかを語る、特別なことばのひとつだ。
 それが──ここにはない。
 匂いだけではない。音もない。動くものの姿ひとつなく、すべては凍りついたように時を止めている。
 われ知らず足を一歩、背後に引いたバンクリフの踵に、剥がれ落ちたタイルの破片が踏みにじられる。古びたタイルが、細かに砕けた。そのかすかであるべき音さえもが、この無音の空間の中では、異様に大きな響きとなって伝わって行く。
「……残念だけど、皆ここで死んだ時に、囚われたみたいね。もう、手遅れだよ……」
 冷たい声で、ツクヨミがつぶやく。
 バンクリフは恐る恐る、彼女の方を振り返る。
 ゆったりと片手を腰にやった姿勢で佇みながら、彼女は真っすぐにこの風景を見つめていた。唇の端をきゅっと引いた表情は、決して笑っているようではなかったが、かといえ泣いているようにも見えない。彼女の顔を彩る化粧が、その表情を完全にかくしている。
 中央に立ったセルジュが、ゆっくりと足を踏み出す。黒衣の裾が翻り、割れて斜めに重なりあった床石を払う。埃じみて見える廃墟の床なのに、何故か埃は全く立たず──そういえば、ここには埃の匂いも、何の匂いもしないんだなと、バンクリフは改めて心づいたのだ。
 図書館の跡か何かであるらしい。壁際に倒れたたくさんの書棚の間に、焼け焦げた書物が数限りなく散らばり、山を成している。
 わずかに残ったページに、びっしり並んだ文字の列が不意に、無数の虫が這い回ったあとのように見えて、バンクリフは慌てて目を逸らした。
 先へ進んだセルジュが、喉の奥で小さなうめきのような声を漏らした。
 振り返ると彼は、床に膝をついて腕を延ばした姿勢のまま、動きを止めていた。バンクリフは一瞬、彼までもがこの空間の異様にとらわれたのかと思って、ぎょっとしたのだが、幸いそうではないようだった。
 セルジュがそろそろと腕を下ろす。その鋭い獣の爪が──彼の前にひざまづいた騎士の肩を、何の抵抗もなくすっと素通りするのを、バンクリフも確かに見る。
 ツクヨミがゆっくりとかぶりを振った。帽子の先につけられた鈴の音が、空間に大きく響き渡る。
「ヤマネコ様、無駄だよ……。もうあたいらには、触れることすらできないんだ。近くにみえても、遥かに遠く……」
 ……人影はみな、今にも動き出しそうな生々しさでもって佇み、だがそこには体温も声も匂いも脈動も、何も残ってはいないのだった。
 細部までくっきりと鮮やかな、それでいて現実感を全く欠いた、幻影のような人々の間へ、バンクリフは足を踏み出した。
 剣に凭れた初老の男性がいる。屈強な戦士風の男が何人か、身構えた姿勢をとっている。年端の行かない少女もいた。片眼鏡をかけて、周囲を調べようとしている、研究者らしい女性。床に膝をついた若い女性は、美しい衣服を身にまとっている。
 そしてその女性の隣で、彼女を助け起こそうとするように、ひざまづいた青年騎士。彼の前にしゃがみこんだセルジュは、ただ茫然とその幻影のような姿に見入っている。ツクヨミに言われたことを頭では理解しても、感情が追いついていない様子だった。
 亜人の表情というのも、道化師姿のツクヨミと同じぐらい、バンクリフにとっては読み取りにくいものだったが──今、この瞬間ばかりは、さすがにその衝撃ぶりが伝わって来て、バンクリフは急いで目を逸らした。
 知り合いだったのだろうか。さして広くもないエルニドのことだ。あり得ない話ではない。
 だが今は、とてもそんなことは尋けない。
 バンクリフは無言のまま、真っすぐ部屋を横切った。図書館の奥手の壁は全面的に崩れ落ちて、道は行き止まりになっている。
 だがその代わりとでも言うように──そこには、次元の揺らぎとよく似た、不安定な空間の乱れが、ゆらゆらと鈍い光を放っていた。
 バンクリフは歩みを止めて、揺らぎを見つめた。瞬間、何処からともなく、子供の笑う声が聞こえたような気がした。
 いやな予感がする。きっとこの先には、ここよりもっとひどい光景が、彼らを待ち受けている。
 ぎゅっと唇を噛みしめて、バンクリフは振り返った。
 ツクヨミがセルジュを促すのが見える。のろのろとセルジュが立ち上がる。ふたりがゆっくりと、こちらに向かって歩き始める。
 その行く手、両側に立ち塞がるように佇む人影たちは、進むふたりを振り返ることもせず、服の裾すら翻ることなく──それでも今にも動き出しそうな、生き生きとした表情を浮かべたまま、永遠の虚空を見つめ続けている。
 激しい眩暈を、バンクリフは感じた。
 よろめいて倒れそうになるのを何とかこらえて、それでも、揺らぐ次元の歪みの方へ向き直る。他に道はない。先に進むしかないのだ。

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